川村記念美術館

昨日、n2さんから教えられた川村記念美術館に、マーク・ロスコとパトリック・ニューマンを見に行ってきた。美術館の描写と作品のインパクトは、n2さんのブログ小説で語り尽くされているので、今さらなのだが、あれは「千葉にはあるまじき美術館」である。千葉の人、ごめんなさい。

昨日の夕方、小田原に帰り着いて、心底ホッとした。どうにもこうにも、千葉の、特に都市部の空気、雰囲気、色、においみたいなのが、私はダメなのだ。その違いは何なのかと、「ら・ふろらしおん事件」以来考えているのだけれど、わからない。海があろうと森があろうと、ジャスコがあってそこの喫茶店にはナイスなマスターがいようと、ダメなのだ。

もちろん例外はある。その一つが川村記念美術館である。

行かれる方は、晴れた平日がいいだろう。休日はさぞかしオバチャンズで混むと思われる。庭園が広々としてきれいだから、散策して、藤棚の下のベンチでお弁当なんか食べたら最高である。

ここのコレクションだが、いったいどういう、、と絶句してしまう取り合わせである。レンブラントシャガールピカソ、モネ、セザンヌ、と来て、マーク・ロスコ、バーネット・ニューマン、その他私でも知っている抽象画、となる。鏑木清方など日本画もある。好意的に見れば「あっちこっち散逸してしまうのが惜しいから、金に飽かせて集めておいた」ということ? 好意的でないか。

だから一つ一つの絵は「おおー、良いのー」と見られるのだが、見終わった後の印象が、ゴチャゴチャして「うーむ」になってしまう。川村記念美術館の体験自体として、雑駁で、「これだこれ」という感じにならない。もう少しテーマというかコンセプトというか、決めてもらえると、シャープでスッキリした感じで終われるのだが。次回からは欲張らず、「ロスコとニューマン」だけで帰ったらいいのだろう。

とりあえずここの抽象画コレクションは非常によい。今まで「え、何を描こうとしているの」と思ってしまい、抽象画は苦手だった。それは二流の作品ばかり見ていたからかもしれない。ここに来て初めて「ありのままに受け止めればいいんだな」ということがわかる。そこから自分が、快や不快や、何を感じるかということだけ、気にしていればいいのだろう。これは先日、宮城まり子さんのねむの木学園の展覧会を見て、知的障害者である彼らの描く「抽象画」が、面白くて面白くて、驚いたことも下地としてあるかもしれない。

ロスコだけれども、正直に書くと、私はこの世界にあまり近寄りたくないと思った。つまり、その世界は、私には制御不可能だからである。そこには狂気があり、激烈な感情があり、果てしない快楽があり、苦痛と悲しみと恐怖があるだろう。そんな世界にどっっぷり浸かったら、私なんて、翻弄されながらもがいて死ぬばかりではないだろうか。というのも私は、なんとかここまで、いろんなつまらないことを、コントロールしながらやってきただけにすぎないので、私には到底、太刀打ちできない世界だろうと、そんな気がした。

その点、『アンナの光』は純粋に喜びを与えてくれた。ただ単にオレンジがかった赤を7メートル×2メートルのキャンバスに塗った、などと言ってはいけない。私にはそれは恋や憧れや愛情や、生きる喜びそのもののように思われた。形がなく色だけだからこそ、いいのだ。これは、部屋に上がっていく階段から見上げるのが、一番よい。

というわけで、n2さん、ありがとうございました。これからは抽象画を見る楽しみが増えました。