料理は段取り

料理は得意ではない。とはいえ、少し前からほぼ毎日、料理をするようになった。外食や弁当より、安くて、栄養のバランスがよく、美味しいものが食べられると思っているからだ。

最初はイヤイヤやっていた。皮をむいて、切って、ゴミを捨ててというのが面倒くさくてならない。

最近はそれほど面倒に思わなくなった。慣れたのもあるが、たぶん

「料理は段取り」ということが分かったからだ。

ある日TVで土井善晴先生が

「あわてないで、全部段取りして準備しておいて、ゆったりやったらよろしい。あなたたちは、あわてるからいけない」

みたいなことを言っていたのだ。そのことを考えていて、納得した。

つまり、料理というのは作業であり、工程である。一つ一つの作業は、計画され、準備されていなくてはならないのである。

具体的に言うと、たとえばジャガイモの皮をむくならば、

ジャガイモを洗う→ザルにあげる→皮をむく→芽を取る→むいたジャガイモをバットに入れる→むいた皮を捨てる、という一連の作業になるので、

まず洗ったジャガイモを入れるためのザル、むいた皮を入れるためのごみ入れ(新聞紙とか)、皮をむいたジャガイモを入れるためのバット、ピーラー、ジャガイモの芽を取るためのナイフ、これらをすべて用意してから作業に臨むのである。

ここで、バットを省略しようとか、同じものに全部入れてすませようとか、横着をしてはいけない。道具はどんどん使うべし、なのだ。

そして、むいたジャガイモと他の野菜は、別にして、作業場からよけておく。

このように他の野菜や肉も、切っていく。

「材料を切る」という作業が終了すると、それぞれの材料がバットに切られて入っているわけである。そこから、煮るなり炒めるなりという工程に入っていくのである。

この「準備して片付けながら作業していく」というのが、案外と、できない人が多いんじゃないかというのが、最近気がついたことだった。

何より、あわてて作業を急ぐと、失敗するし、楽しくないのだ。

多少、食事の時間が遅くなってもいいので、段取りして準備して、正しく作業するのが、料理を好きになる秘訣だと思う。

 

トム・ペティ、プリンス

ジョージ・ハリスンの追悼コンサートのyoutubeを見ていたら、トム・ペティが歌っていた。スーツ姿で小さいサングラスをかけたトム・ペティも、渋くてカッコいい。ジョージの息子のダーニもトムの横でギターを弾いているのだが、ジョージそっくりな若者で、キュートである。そしてなんとなくトムおじさんを慕っている感じが良い。

しかしこのビデオの見どころは、なんといってもプリンスである。途中までどうでも良さそうに横でジャンジャン、と弾いているのだが、最後にギターソロになったらまあすごい。こんなにギターの上手い人だったんだと改めて思わされる。ギターを思うがままに操り、翻弄し、百通りくらいかと思う音で歌わせる。それを何気ない感じでやってのけてしまうのである。あまりにプリンスがすごいので、ダーニもトム・ペティも、しまいにはひえーという感じで笑ってしまっている。

それでこれを見た後は、やはり、トム・ペティもプリンスももうこの世にはいないんだという、寂寥に襲われる。なんでこんな健康そうな二人が死んでしまうんだろうと不思議に思う。トム・ペティはきれいな金髪で、立ち姿がカッコよくて、南部なまりで、明るくて、さぞモテそうな感じ。晩年はあっちこっち悪かったそうだが、まだまだ活躍できたのではと思える。プリンスは、強烈なカリスマである。贅肉のまったくない、鞭のように引き締まった身体、余裕しゃくしゃくの高速のダンス、ジャンルを超越したギタープレイ、こんな人間がいるんでしょうかとさえ思ってしまう。こんな人が50代半ばで死ぬのが信じられない。

この二人もマイケル・ジャクソンも、鎮痛剤の過剰摂取で死亡したとのことだ。なんとも惜しいことだ。

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亡き王女のためのパヴァーヌ

今日聴いた「亡き王女のパヴァーヌ」は美しかった。どこか遠くの雪山に、人が足を踏み入れたことのない、冷たく澄んだ湖があって、キラキラ輝いているような、演奏だった。

プロの演奏ではない。たぶん知的障害のある、小学生の少女が弾いたのだ。恥ずかしげに、こんな場所でピアノを弾いていいのかと言いたげに、発表会の舞台に上がった。しかしパヴァーヌを弾き始めると、すっかり落ち着いた。彼女はパヴァーヌが好きなのだ。

もちろんミスタッチもある、上手な演奏ではない。しかし彼女が自分の心のなかに、だれにも汚されることのない澄んだ湖を見つけたことが、感じられる演奏だった。彼女はその湖の美しさをもっと感じたくて、ピアノを弾いていた。王女は死んでも、透きとおるように美しいまま、存在し続けるのだ。

彼女のこれからの人生に、何があっても、この美しく澄んだ湖が支えになるだろうと、私は信じた。

上昇したい

若いころは、50代になったら、泰然自若と生活をエンジョイするのかと思っていた。周囲には、そのように生きている人もたくさん居る。けれども、私の場合、全然泰然自若としない。

わけもないのに、毎日不安である。世の中の不安な情勢のせいもあるかもしれないが、理由はあまりよく分からなかった。だが、ようやく分かった気がする。

人には生きて行く動機が必要で、そのモチベーションがなくなると、生気をなくし、健康を害したり、死んだりするのだ。ところでこの動機は、人それぞれ違う。ただ好きなことをして気楽にしていたいという人もいる。家族のために尽くしたい人もいる。動機というより、満たされないと死にたくなる欲望である。

私の場合、上昇することである。と書くと、カッコよく見えるが、上昇していないと気が済まないわけだから、イカロスの翼の話みたいなものだ。ただ、まあ太陽に焼かれるほど上昇できないので、イカロスにもなれないわけだ。

上昇していないと情緒不安定で、周囲の人にとっては迷惑な存在であって、もっとどっしり構えて常にポジティブな人間のほうがいいに決まっている。

仕事が落ち着いてしまい、これ以上ここでは前に進めないと感じているために、不安なのである。しょうがないなあ。また転職するか。自分の本質なので、どうすることも出来ない。

私にとっての恐怖は、上昇できないこと、ヒマになること、必要とされないこと。この状況が改善されたと感じない限り、不安は治らない。

旅行には行くべき

冬のイギリスに旅行に行った。当たり前だが、朝は9時ぐらいまで真っ暗だし、午後4時には日が暮れる。田舎のほうを回っていたので、景色はヒツジがいる草原ばっかりで、雨がしょっちゅう降る。生活は絶対、貧しい、慎ましい生活をしているはずだ。イギリスの強烈な富はロンドンに集中しているのだ。

U2のギタリスト、エッジが、アイルランドの経済についてtoiletと言っていたが、イギリスの田舎だって似たようなもんだろう。多くの人は狭くて暗い家の中で、寒い思いをしているのだ。

そんな中、相変わらず元気な中国人や中東人やインド人が、バカ高いモノを買いあさるのを眺めたり、昔の遺跡に自分の歴史の知識の無さを嘆いたりして、8日間を過ごした。なんだか楽しくなさそうに聞こえるかもしれない。でもとても楽しかった。

なぜかというと、やはり旅行には行くべきだと思ったから。それは美しい物や景色を見られるとか、そういう意味もあるけれども、最も意義があるのは、いつもと違った生活をして違った景色を見ることである。知らない場所に行って、さっさと行動しなくてはいけなかったり、ちゃんと荷物をまとめないといけなかったり、盗難に遭わないよう気をつけたり、どうしたら一番得で楽なルートなのか考えたり、他人の言うことをきちんと聞いていなくてはならない、知らない人にも、信用できそうな人かどうかを自分なりに判断して、道を聞いたりしなくてはならない、そういう経験を定期的にすることが、ものすごく重要だと思うのである。

つまりそれは、人間としての基本的能力の鍛錬である。勇気、行動力、判断力、いざという場合の覚悟、知識、経験、すべてが試され、強化される。これを人任せにしたり、旅行に行かずに毎日同じ生活をボーっと送っていると、老化が早まるし、生きていることに意義が見いだせなくなる。

私の義母は毎年4,5回は自分で企画して旅行に行くが、実にえらい。尊敬する。だから80歳近くなってもまったくボケない。

芸術の必要性

またまた、宇野昌磨フィギュアスケートで、涙してしまった。こんなに若いのにこの子は、なんで芸術が人間には必要なのかを知っている、と思った。
芸術は生産行為ではない。カネやモノを直接、産み出すものではない。
しかし芸術は人間には絶対に必要なのだ。芸術がなかったら、人間は今よりもっと動物的な本能で行動し、もっとケンカしたり殺人したり、戦争したりするのだ。
芸術が与えてくれるものとは、
より高い理想への憧れ
世界はそんなに悪いものじゃないという希望
美しいものを美しいままにとどめたいという気持ち
未知の世界や未知の人間への興味と理解
時として人間が経験する強烈な感情の再現
世界に対する様々な捉え方、考え方の提示
などなど、人間が普通に日常を過ごしているだけでは、与えられないものを、芸術は与えてくれるのである。
むしろ貧しくて、絶望している人にこそ芸術は必要なのだ。
昌磨くんを押さえて一位になった選手は、ジャンプは軽々決めていたけれど、ブラック・スワンの悲哀や憎しみや栄光は一切、感じられなかった。だから昌磨くんが一位になる日は近いと思うのである(いつの間にかくん付けになっている)

そんなわけで今年の冬、ロンドンでもしジミーペイジに会えたら、あなたの芸術にはこういうものを感じさせる力がありますね、と言ってやる。間違っても、そろそろ着替えて他の服を着たら? などとは言わないつもりだ。。。

今さらながら、ハムレット

今ごろこの歳になって、ハムレットを読んでいるのだが、動機はBroadchurchというイギリスの人気ドラマを観て、David Tennantのファンになり、彼がハムレットで名を挙げたことを知ったからである。それでDVDでハムレットを観ているのだが、英語字幕で古語だからさっぱり分からないので、まず原作を読むことにした。

このハムレットという男は普通ではない。というのも、敬愛する父を叔父に毒殺されて、その子供として普通ならどうするだろうか、と考えると、やはり国王になった叔父に反対する勢力を糾合して軍隊を作りクーデター、というのが常道だろう。ところがこの人は、あれこれ一人で悩んだ挙句、復讐を果たしながら自分も死ぬ道を選ぶのである。その間、恋人を捨ててみたり、叔父の罪を証明するために長たらしい芝居を作ってみたりと、そんなこと必要なの? ということをやるのだ。もう父の亡霊に自分は叔父い毒殺されたと告げられた時点で、それが本当だろうが嘘だろうが、自分も将来は殺されかねないのだから、クーデターか脱出を企てるのが当然。

だからそもそもこの男は、自身の存在に価値を見いだせないというか、死に引き寄せられる性向を持っていて、それが生きるべきか死ぬべきか、という科白になっているわけである。父の殺害はこの死への誘惑に負ける引き金になったにすぎない。

それと、復讐を遂げるまでにいろいろ悩むわけだが、父を殺されたことよりは、叔父とさっさと再婚してしまった母への愛憎のほうが強い。女はそもそも娼婦だ! という感じのバカげた潔癖さに悩まされているのである。私に言わせれば人生は生きるか死ぬかの闘いなので、母がさっさと権力者になびくのは不思議ではない。それよりは昼寝している男の耳に毒薬を注ぎ込む奴のほうがよっぽど卑怯者だ。

そんなわけでハムレットは面倒くさい男で、勝手に悩んでれば? みたいな奴で、会社にこんな奴がいたらやだな〜と思う。ただこの作品は、ハムレットにせよ叔父、母にせよ、近代人の典型を完璧に描き出しているのであって、人間は単純なものではなくいろんなことを考えて行動しているのだよ、みたいなことをつくづくと考えさせられる、名作である。