ら・ふろらしおん(仮名) 8

その晩は、困ったのはやはり歯磨きで、しかたないから便器一つの共同トイレで磨いていたら、ガチャガチャガチャ!「開かない! 壊れてる!」と外で叫ばれた。「使ってますよ」と声をかけたら「あー、すみませーん」と声がした。
とにかくテレビを見たりして寝てしまうに限るということで、布団が薄いので、ありったけ出して重ね、どうにか寝た。
恐れたようなことはなく、意外にも静かだった。子ども連れが多いので、早く寝てしまったのだろうし、カップルもここではホテル中に声が響きそうで行為に励めないだろう。タコ部屋の客がみんな失意を抱えながら寝ている図を私は頭に思い描いた。

翌朝は8時半から朝食と言われていたが、8時すぎに電話がかかってきた。「朝食の用意ができました」と言う。出来たから早く食べろというわけ。約束の時間を守るという観念もないらしい。
パンはご自由にお取りくださいということで、3種類のパンが並んでいる。この朝食は、案外、悪くなかった。コーヒーカップも普通の大きさだった。やる気があれば出来るじゃん。
パンの一つがヨモギパンだったのだが、客の子どもが「へえー、こんな緑色のパンがあるんだね、洒落ているね」と感激していた。なんだか、ヨモギパンなんて珍しくもないと思っている私がひどくイヤな奴になったような気がした瞬間だった。

さて、出発しようとしたら、靴が出ていない。私が9時半に出発することは知っているはずで、ホテル側がどこかに仕舞った靴は出して貰わないと困る。
「靴がないんですけど」と言うと、マダムがまた現れた。
「勝手にどうぞ、下駄箱から取ってください」彼女は当然のように言った。
靴の間違いがあるからホテルでは気をつけなくてはいけないはず、と思ったけれども、もう何を言ってもムダだ。

帰りがけに私はジャスコの喫茶店にもう一度寄った。最初から寄ろうと思っていて、出発時間を調整したのだ。
ちょうど開店したばかりのマスターに、「ら・ふろらしおん」での出来事を逐一報告したのは言うまでもない。彼はきっと、常連たちに噂を広めてくれるだろう。
「そんな奴ばっかじゃないんだよ、安房鴨川はさ」マスターは残念そうに何度も繰り返した。私もそれは分かっている。
車で送ってくれた彼女にもどうぞよろしく、と伝えて、私は安房鴨川を後にした。(了)