ら・ふろらしおん(仮名) 3

私が助手席に乗り込み、彼女がエンジンをかけると、大音量で、セリーヌ・ディオンだか何だかの絶叫型ポップスが襲った。彼女はあわてず騒がず、そのままの音量で絶叫を聞きながら、車をスタートさせた。
帰り道が退屈だから私を誘ったのだろうと思っていたので、私は大音量の音楽に負けないよう声を張り上げて、彼女と話した。案の定、話し相手が欲しかったらしく、彼女は質問に答えて自分のことを話してくれた。いわく、彼女は南アフリカから25年前に日本に来て、日本人と結婚した。夫は、1年の半分はハワイで何か教えているのだそうで、あまり会えない。子どもたちも、結婚したり遠くの大学に行ったりして、家を出て行った。寂しい、とのこと。
「じゃあ、家で独りなんですか」私は聞いた。
「ううん。オットの母親、ばあさんがいる」
「ばあさん!」
「そう、私もばあさんけど、もっとばあさん。ばあさんと私、合わない。うるさい。もっと掃除しろ言う」
「ああー、大変そう」
南アフリカから来て、旧弊な田舎の家で、夫も子どももいなくて、夫の母親と暮らすのは、いくらシャワートイレや食洗機があっても、さぞかしつらいことだろう。
安房鴨川はどうですか。いいところ?」
「いいところけど、何もない。行くところない」
だから毎日ジャスコの喫茶店のマスターと話しているわけだ。
やがて海沿いの道から上り坂に入った。狭い山道に曲がってさらに登っていこうというところで、彼女は車をとめて、あそこがバス停だと教えてくれた。考えてみれば、1時間に何本も来ないんだろうし、タクシーでしか脱出できそうにないな、と思った。
それから坂道を5分ぐらいは登ったのではないだろうか。彼女は「6分、無理」と宣告した。私の感覚だと15分はかかりそうだ。
丘の頂上に「ら・ふろらしおん」の看板が見えた。レンガづくりの、3階建ての大きな建物で、ラブホテルのけばけばしさと安っぽさを、3段階上げたぐらいの程度で、だからいちおう、ラブホテルではないが、なんともいえない下品さといかがわしさのオーラがある。
「これだ、これだ」と彼女は言って、(思った通り、良くないな)みたいな笑みを浮かべた。私も同感だった。
彼女に丁寧に礼を言い、玄関前のステップを登り、「ら・ふろらしおん」の看板の下のステンドグラスの玄関を開けた。
私の目に、20足ほどのスリッパが散乱した光景が、飛びこんできた。