ら・ふろらしおん(仮名)1

特急電車が南房総に近づくと、視界が開けて明るい海が見える。東京で見る海とはまた違い、どことなく南国らしい風情があって、心躍る風景なのだが、電車内は、そうはいかない。なにしろ春休み最初の土曜日で、特急わかしお号指定席は満席、ほとんどすべてが家族連れか、温泉でのどんちゃん騒ぎへの期待に胸をふくらませている中年男のグループばかりなのである。ワンカップ大関を飲んで、いびきをかいて寝る奴の横を、子供が歓声をあげて走り回っているという有り様だ。
私は会社でのあれやこれやに疲労困憊して、家族に断って一人で小旅行をすることにした。この時期の南房総があまり面白いことにならないのは予期していたけれども、大原に住む友達を訪ねがてら、一人で、違う景色を見るだけでいいと思ったのだ。まあしかし、悪いけど、「だから千葉はダメだよな」と思ってしまう。熱海や箱根だって、これに近いものがあるが、でもここまでではない。
安房小湊ワンカップ大関の男どもは大挙して降りていった。「ホテル三日月」の送迎バスが来ていたので、あそこに泊まるんだなと思った。きっと、カラオケ、温泉、酒、コンパニオン、ありとあらゆる娯楽が揃っているに違いない。酒池肉林。
私は他の家族連れとともに終点・安房鴨川で降りた。特に鴨川シーワールドに行こうなんていう気はない。神経を休めに来たので、何もないところで何もしないでいればいいのだ。しかしこれから行こうとしているホテルには若干、というかかなり不安があった。
会社で加入している福利厚生サービスで、大原に便のいい場所で安いホテルを探したら、この「ら・ふろらしおん」に当たったのだ。なんと素泊まり5000円台。写真で見ると「アンティークホテル」の名のとおり、アンティークの家具が置かれた素敵な部屋が写っている。
私も50年近く生きているから、そんなうまい話はありえないとは思ったのだが、どうせ一人なんだし一晩なんだし、何をする気もないんだし、いいやと思って、申し込んだ。
宿泊の日が近くなって、私はふと、食事の心配をするのは面倒だなと思い「ら・ふろらしおん」に電話した。
「はい、『ら・ふろらしおん』でございます」なんだか中年の、ひどく気取った「マダム」である。
「あの、Kと申します」
「ああー、Kさん。もう、Kさん、これ私たち、間違えたんですよう。こんな安い値段で泊まれるわけないじゃないですか。春休みの土曜日に。ほんと、間違っちゃって、もう」
私はいきなりこうまくし立てられて、ひるんだが、今さらキャンセルしても、全額払う規定になっていたので、特に反応しないことにした。
「まあしょうがないですけどね、とにかく、ねまきはご用意しませんので」
「ねまき??」
私は旅館で出される浴衣が大の苦手で、旅行の時は必ずパジャマを持って行く。だからねまきがないのは平気なのだが、復讐のように、ねまきを用意しないと宣言したマダムにはちょっと辟易した。
「ねまきは要らないですよ。持って行きますから。それで、夕食と朝食をつけてくれませんか」
「あら、いいですよ。夕食が3000円で、朝食が1000円です。食事をしていただけるんでしたら、ねまきをつけますよ」
「だから、ねまきは要らないですよ」
以上のような会話があって、私としては、最悪な夜になる覚悟をしていた。