オンライン小説「格差社会」8

三枝美由紀は若く見えるがもう四十歳だった。水商売の世界では「もう」四十歳、である。小田原駅から一〇分ほどの寂れた花街に、女の子が一人しかいない小さな店を持っていた。こんな安アパートに住んでいるので想像もしなかったが、店のオーナーなのだ。
ということを美由紀はポットで紅茶を入れてくれながら話した。チエミの家に昔、今よりは生活が楽だったころの名残りの紅茶ポットはあるが、長らく使われていない。いつも日東紅茶の一番安いティーバッグを母が買ってくる。
「あたしはもう少し歳をとったら、居抜きであの店を売って、海辺にちょっとした家を買って隠居するの。だから今はこんなとこに住んでる」
「居抜き、ですか?」
「そう、店の名前ごと買ってもらうのよ。常連さんもついてくるから、店は賃貸でも、売れるわけ。まあ流行ってる店の場合は」
「流行ってるんですか?」
「流行るわけないじゃん。なんとか食べてるだけ。小田原の人口は二十万人切ってる。東京の世田谷区ひとつの人口は八十三万人。小田原がどんだけ寂しいかわかるでしょ。市外から働きに来る人だっていないし。うちに飲みに来るのは公務員と、最近ではちょっと羽振りのいい自営業者だね。普通のサラリーマンは、なかなか女の子のいる店で飲む元気はない。居酒屋に行っちゃうか、もっとピンクなところに直接的に行っちゃう。一年に一回ぐらい間違って入って、二度と来ない」
チエミは美由紀に自慢癖や虚言癖がなく、現状を正直に話してくれることに、安心した。水商売でも、父や母よりよっぽど、ちゃんとしている。
「あの。ピンクなことは、しなくていいの?」
「建前上はねえ。しないよ。店の中でピンクなサービスをするってことはない。でも生活は乱れるよね。注意してないと」
「美由紀さんは?」
「あたしは、この商売を長く続けていくには、大事なことが一つあると思ってる。それはお客を好きにならないこと。人間的にも、男としても、好きにならない。そうしないと、やってられないよ」
チエミは少し考えた。「なんで、みんなそんなお店に来るの? 好きになってもらえないのに?」
「そこよ。好きなんだって思わせるの。あなたに尽くして、何だって許してあげるわよって、そんな雰囲気を漂わせるの。水商売って要するにそういうことよ。でもね、あるところで突き放さないと、どこまでも増長してくるのよね男って。ほんと、バカだからさ、今度あんたのアパート行っていい?なんてすぐ言うから。そこは謎を残すわけよ。ミステリアスな部分をね」
「ふうーん。。。どのくらい儲かるんですか?」
「儲からないよ。一晩五万円ぐらい。だいたいお客さん一人一万円もらって、五人来るか来ないか。女の子とバーテンへの払いと、お酒と食べ物の仕入れ、家賃を引いたら、手元に三十万円も残らないよ。そこから化粧品や衣装も買わなきゃいけないしね、楽じゃない」 
それでもタクシー運転手やパートをやっているよりはマシだが、店のオーナーがこれでは水商売も案外と儲からないのだろうか。
その考えを美由紀は読み取ったらしい。「ああ、こんな場末でね、こんなババアだから儲からないんで、東京で若い子がいい店に入れたら、それは稼ぐね。月二百万円なんてのもいる」
「それはピンクじゃなくって?」
「あのね。簡単にピンクやったらかえって金は稼げないの。高嶺の花って、分かるかな。そういうものになっていないとね」
「なるほど」
チエミは週に二回は美由紀の部屋に行って、細々とした知識を得た。というより、最初は教えてもらおうという魂胆だったが、だんだんチエミの部屋で紅茶を飲んだりクッキーを食べたりする時間が心地よくなっていったのだ。