オンライン小説「格差社会」7

「ああー。そりゃー夢物語だわねえ。そんな根性あるの?」美由紀はそれでもチエミを面白いと思ったらしい。「あたし今日はもう支度して出なきゃいけない。明日は学校から何時に帰ってくる?」
「二時ごろ」進学校である小田原高校では、大学進学組に対して補講が行われているが、就職組に入っているチエミは授業も短縮され、さっさと帰れと言われているのだ。同じ授業料を払っているのに不公平な話だ。
「あたしが水商売の現場の話をしてあげようか。諦められるように」
「はい、聞かせてください」チエミは頭を下げた。
「じゃあ、あたしの部屋に来れば。あんまり、誰にも見られないほうがいいよ。あたしみたいなのと、あんたみたいなアタマのいい子がつきあうと、すぐ噂になっちゃうからね」
翌日学校から帰ると、私服に着替えた。制服姿で水商売の女の部屋に出入りするのはヘンな気がした。私服はジーンズが一本、Tシャツ五枚、薄手のジャンパー一枚、ダウンコート一枚。これっきりだ。毎年、夏休みに郵便局でアルバイトをして、少しずつ買っている。どれもシティモールのシマムラで買ったもので、安いのだけが取り柄だ。それを丁寧に扱って長持ちするようにする。
チエミに収入があると見るや、母は下着やパジャマ、学用品も自分で買えと言った。夏休みほとんどを郵便局の天井の高い暗い建物の中で郵便物を仕分けながら過ごしても、五万円にしかならないのに。
チエミの高校時代の思い出は、とにかくお金がないこととの戦いでしかない。修学旅行に行けないことは予測がついていたので、前々から「そんな馬鹿げたものには行かない」と公言しておいた。部活をやるにも、道具やユニフォーム代がかかるので諦めた。
特に、制服を買ってもらうのは大変だった。紺のコートも含めると六万円ぐらいかかった。どこからそんなものを捻出するのだ、と母は力なくため息をついた。せっかく地元の名門高校に、塾にも行かずに合格したのに、制服が買えないのでは登校できない。公立なのに受験料だって何だってけっこう高かった。それで母のへそくりは底をついてしまったのだ。やっぱり中卒で働けばよかったのかとチエミは思った。
「ギャンブルで当たればなあ」などと父は呑気なことを言って「しかしどう考えてもそんな金はないな。お前、無理だよ、やっぱり高校行くのは。働けよ」
「だめよ、高校ぐらいは出ておかないと」母が言った。
「高校出たって中卒だって、たいして変わんないべ。どうせ貧乏だろ」
母は一瞬、気が狂ったように悔しそうな顔をした。そんな母の顔をチエミは初めて見た。まだそういう自負心が残っているんだなと思った。
次の日母は湯河原の老人ホームに入っている祖父に会いに行った。祖母が死んでから、祖父は警戒心が強くなり、誰が来ても自分の財産を横取りしようとしているという強迫観念の虜となり、恐るべき吝嗇になっていた。痴呆ぎみで実の娘のこともよく分からず、情もないみたいだった。チエミは中学に行ってから祖父に会ったことはない。「貧乏人、帰れ帰れ!」と追い立てられるからだ。
母がどうやって祖父を説得したのか分からない。チエミの推測では、勝手に引き出しから現金を持ってきたのだろうと思っている。しかしそのくらいのことをしてもらう権利はあるだろうと、母も、チエミも考えた。罪悪感はなかった。