オンライン小説「格差社会」26

手回しのいいことに、母は鞄から便箋を出した。
「いい、言うとおりに書いて。『私は二度と阿部佐緒里さんに、いかなる形でも迷惑をかけません。また、佐緒里さんには決して会いませんし、いかなる手段でも連絡も取りません。もし右に違反した場合は、金100万円を支払います』」
100万円とは大きく出たな、と思いながら、チエミは深呼吸して気を静めた。そうだ、確かに佐緒里には迷惑をかけた。佐緒里にしてみれば、好意だか成り行きだかで、チエミを泊めてしまったばかりに、恐ろしい黒服の男がやって来たのだ。ショックだろう。とはいえ、その世間知らず加減、そしてそれを手厚く擁護してやる親の甘さ加減には呆れてしまうが、まあ、自分は迷惑をかけたのだ、それを認めよう。いま慰謝料とか言われないだけマシだ。たぶん佐緒里の親は、チエミの両親の生活ぶりを見て、どうせ何も出ないと思ったのだろう。そして100万円と言っておけば、絶対に払えない金額だから、約束を必死で守るだろうと考えたのだ。
「佐緒里さんと、ご両親によく謝っておいて」母は「藤巻」という印鑑まで用意してきていたので、捺印し、「申し訳ありませんでした」と欄外に書き添えた。彼らがしつこく追いかけてこない為なら、何でもする。
しかしこの東中野のアパートは、両親に知られてしまったから、出なくてはなるまいと思うと、チエミは口惜しくなった。せっかく気に入っていたし、引っ越しとなれば貯金も崩さなくてはならない。
でも母に嘘をついて、たとえば「ヤクザがバックについている」と言ったとしたら、両親はどういう行動に出るだろうか? たった一人の娘を(金づるを)救おうとして、突拍子もないことをやるかもしれない。自分が金づるではないということをはっきり分からせるには、どうしたらいいだろう?
やはり黙って引っ越すしかない。住民票は東中野に移して、どこに対しても住所は東中野で通し、今度こそ誰にも知らせずに、行方をくらまそう。
誓約書を取ってしまって、ホッとしたらしく、母はサンドイッチを食べ、コーヒーを飲んだ。まあ、ここは奢ってやる。でもお金は一銭も渡さない、とチエミは思った。
「でもチエミは案外と元気そうね。というか、前より綺麗になったわ、ずっと」母はぎこちない口調で言った。「あなたはあなたなりに、ちゃんとやってるみたいね?」
ちゃんとやってる、と母に言われて、いろいろな思いが不意にこみ上げて、チエミは泣きそうになった。そうだ、あなたに全然かまってもらえなかった娘は、一人で、孤独に耐えながら、誰にもつけこまれないようにハリネズミのように神経をとがらせながら、18歳で、夜の街に生きている。どれだけ大変かあなたに分かるか? 甲斐性のない夫に頼りながら、貧乏から抜け出す知恵も気力もなく生きてきたあなたに?
母はさらに、言いにくいことを一生懸命に努力して話すように、口にした。
「チエミ、お父さんとあたしが、チエミからお金を取ると思っているんでしょう。それだけはさせないように頑張るわ。この住所は、お父さんには言わないわけにいかない。佐緒里さんのご両親のことで、お父さんは相当イライラしてるからね。今日だって一緒に来るって言ったけど、仕事に行けって追い返したのよ。だから早く引っ越しなさい。お母さんに住所は教えなくてもいい。でも……」母は少し声をつまらせた。「メールアドレスでいいわ。教えてくれる?」
「お母さんのアドレスここに書いてよ。あとでメールするから」チエミは母のほうを見ないようにしながら、ファミレスのペーパーナプキンを押しやった。愁嘆場なんて、大嫌いだ。
母はそこに丁寧に文字を書いた。そして最後に決心したように母は言った。
「悪かったわ。お母さん、ぜんぜん気力がなくて、あなたに何もしてあげなかった。今も、これからもたぶん、何も出来ない。一番あなたにとっていいのは、そっとしておいてあげることなのね」
母は立ち上がり、伝票を取り、勘定を済ませて出て行った。その金額が、3人家族だった時の2日分の食費に相当することを、チエミは知っていたが、声をかけることもできなかった。
母の後ろ姿を見送ったあと、チエミは10分ぐらい呆然と座っていた。