オンライン小説「格差社会」26

「お腹すいてない? 何時に小田原を出て来たの。東海道線が混んだでしょう」チエミはチャラチャラと調子よく喋った。客だと思えばいい。「サンドイッチでも食べようか」勝手にコーヒーとミックスサンドイッチを頼んだ。「さて、どうしてここが分かったの?」矢継ぎ早にチエミは聞いた。こちらのペースに持ち込むのだ。
「もう、チエミったら。大変だったのよ」母はうんざりした口調で始めた。「あなたのクラスメイトの阿部佐緒里って子。あなた、彼女の住所を使ったでしょう」
「まあね」居直るしかない。
「佐緒里さんのところに、突然、黒服っていうの? 水商売の男が訪ねてきたそうよ。佐緒里さんが出てみると、びっくりした顔して『エリカいますか?』ってね。エリカなんていません、って言ったら、その男が『こう、痩せっぽちで、背が高くて』って、あなたの特徴を言い出したので、佐緒里さん、『もう彼女は出て行きました、それにエリカじゃないです』って、泣きながら帰ってもらったんですって。そのあとすぐ、佐緒里さんは親御さんに電話したのよ、泣きながらさ。親御さんはびっくりして、うちに怒鳴り込んできたわけ」
チエミはすぐその男に思い当たった。歌舞伎町の店で、しつこくチエミを口説いていた店長だ。チエミみたいな変わり種に興味をそそられたらしく、「なあ、お前だって、まんざらじゃないんだろ」とかなんとか、本当に陳腐でバカな男。住所を書いた履歴書も店長なら見られるわけで、公私混同の職権濫用でやって来たわけだ。まったく、セクハラで訴えてやりたいが、そんなことが通用する社会でもない。
「あたしとお父さんは、去年の夏にあなたを探したけど、見つからなかったわ。アパートであなたが仲良くしていた美由紀って人に聞いたけど、絶対に口を割らないし。どうせ水商売をしてるんだろうとは思っていたけど」母はため息をついた。「とにかく、佐緒里さんのご両親としては、あなたの居所を突き止めて二度と佐緒里さんと関わらないって誓約をとれ、の一点張りよ。困り果てて市役所に行って、事情を話したけど、あなた住民票も全部、佐緒里さんの所にしたでしょう。まったく、どういうつもりなのよ」
チエミはひどく腹が立ってきた。自分は誰にも迷惑をかけていないつもりで、一人でコツコツと地道に生活してきたのだ。不真面目なことなど何もない。それなのに、世間が寄ってたかって、ちょっかいを出し、邪魔をする。水商売をしているというだけで、学芸大学に通い水商売の男に声をかけられたら泣いてしまうぐらい世間知らずなバカ女より低く見る。こんなものは、金輪際断ち切るのだ。チエミはその瞬間、固く決心した。
「で、どうして分かったの?」
「私たちが困り果てているのを見て、美由紀さんが教えてくれたわ」途中から、そうだろうなと思っていた。美由紀には本当に世話になったので、知らせないわけにはいかないと思ったのだ。それが甘かった。美由紀は案外と人情派なのだ。
チエミは必死で感情を抑えこんで、できるだけ冷静な口調で話そうとした。怒ったら負けだ。こういう時は、いやらしくねちねちと言った方がいい。
「あんたたちから、逃げたかったのよ。もう来ないでくれるとありがたいわ。あたしの世話なんか、全然してくれなかったし、為になることも何もしてくれなかったでしょう。まあ、虐待されなかっただけ良かったけど。あんたたちが何もしてくれなかったんだから、あたしがあんたたちに何かしてあげる義理もないわね」チエミはフン、と笑ってやった。「いいわよ、誓約書、書くわよ。佐緒里に二度と会うつもりはないしね」