オンライン小説「格差社会」25

銀座に出勤しはじめて1週間経った4月のある日、東中野のアパートで、昨晩来た客へのメールを打っていると、チャイムが鳴った。このアパートにも、ろくでもない木のドアしかついていなくて、チエミは時々不安になる。店には学芸大学の佐緒里の住所を届けていたし(どうせ店はチェックしないだろう)、ほとんど誰にもここの住所は知らせていなかったから、来るのはNHKと新聞の勧誘その他押し売りぐらいなものだ。
チエミは返事をせずに黙ったまま、覗き穴に目を当てた。そこには母がいた。
安っぽい白いブラウスに、時代遅れなスカート、伸ばしっぱなしの髪を結んだだけで、化粧もしていない。あるいはしているのかもしれないが、剥げてしまったようだ。途方に暮れたような表情を浮かべている。
チエミは素早く頭を回転させた。小田原と東京は距離的にも心理的にも遠くないし、ここを突き止めて、やって来るだけの気力があったということは、母は何度でも来るだろう。ここに母がたどり着いたということは、どこからか情報が漏れているのだ。それを確認しなくてはならない。だから出勤の支度をするまでに時間がある今、母と話す必要がある。しかし、この部屋に入れてはならない。部屋にある物が様々な事実を物語るだろうから。
チエミは身支度の確認のために玄関に貼ってある等身大の鏡を見て自分の身なりをチェックした。もちろんこの1年のあいだにチエミは前よりずいぶん魅力的になっている。運動と、いい食べ物と、自由な生活のおかげだ。それは隠しようがない。ただ今はジャージ姿で、髪も後ろでひっつめているだけだし、化粧もしていない。水商売のことは隠せるかもしれないと考えた。いちばんヒールの低い、ゴミ捨てに行く時に履くサンダルを出して履いた。
ドアを開け、すぐに後ろ手にドアを閉める。
「あなた何、男でもいるの」母はいきなり詰め寄った。
チエミは黙ってカギをかけ、母の前を歩き出す。ここで母に騒がれると、近所の噂になる。
「ファミレスに行こう」チエミはどんどん歩きながら言った。「咽喉渇いたでしょ」
母はすぐに、今はチエミのほうが上手なのだと見てとった。いつも負けている人間は、そういうことに敏感だ。黙ってついてくる。考えてみれば、高校に入った頃から、チエミのほうが上手ではあったのだ。
午前中のファミレスは空いていた。窓ぎわの席に案内されて、チエミは少しホッとした。ここまで持ち込んでしまえば、母を懐柔するのはたやすい。
「元気そうね」母はとりあえず口に出す。「何やってるの?」
平日の午前10時にジャージ姿で部屋にいるのだから、ろくなものではないことはバレている。
チエミはどこまで母に話すか、迷った。母と父の関係がどこまでのものなのか、チエミには窺い知れないが、なんだかんだ言っても20年以上夫婦をやっているのだから、言ったことはすべて父に伝わると思ったほうがいい。母については、廃人みたいなものとはいえ、まだまともな常識を持っているので、あまり心配ないが、父はこちらに金があると見れば、何をするかわからない。
とりあえず、自分の居場所を突き止めた事情を聞きだそう。どこまで話すかはそれから考えることにした。