ら・ふろらしおん(仮名) マダムの独白2

産まれたのは三重と和歌山の中間ぐらい、近鉄の各駅停車しか停まらない駅から車で30分という、漁村。何もない、超、田舎。クジラ漁なんかやっていたの。今は出来なくなったけど。気候や環境としては安房鴨川に近いわね。だから懐かしくて住んでるのかも。でもあまりいい思い出はないわねえ。
父親は漁師で、いつも新鮮な魚が手に入って、買ったことがなかった。東京に来てスーパーで魚を買ったら、同じ魚とは思えなかったわね。いいことはそれぐらい。
とにかく貧乏だった、というか、現金がなかったのね。食べ物にはあまり不自由しなかったんだけど、物が買えないの。父親には殴られるし。なにかっていうと殴るのよ、気性がはげしくて。母は父の言いなりだし。親戚連中が多くて、村の半分は親戚みたいなもので、口うるさいし、ちょっと学校サボったりすると、すぐ見つかって、父か母に告げ口されちゃうのよ。母はすぐ父に言いつけるから、また殴られるの。なんか、殴られたり怒られたりした思い出しかない。両親とも、あまり子供が好きじゃなかったんじゃないかと思うのよね。珍しく一人っ子だったし。
中学生ぐらいになると、自分が少しは見られる顔だというのが分かってきて、これを武器に東京に行こうと決めたの。クラスの男の子によく告白されたしね。でもそんな田舎じゃ、情報量が圧倒的に少ないでしょ。当時はインターネットなんてないわけで、東京といえば、東京タワーとか、原宿とか、その程度しか知らなかった。東京からUターンしてきた人も村にいたけど、あまりいいことないよ、恐いところだ、みたいな感じで。
だから私としてはとりあえず、中学の先生の斡旋で、埼玉の奥の工場に就職したの。何の工場だったのかしらね。それすら知らなかったわ。中卒じゃ、事務もさせてもらえなくて、毎日毎日、アルバイトの高校生と一緒に、ハンダ付けをやってたわ。仕事なんて、面白いわけないでしょ。意味もわからないし。ただ、仕事が速いと褒められたけど、別に給料が増えるわけじゃない。一日中、ハンダ付けだけ。お茶出しも、コピーとりもなかったわ。月給が7万円にもならないの。寮に入ったから、生活には困らなかったけど、その7万円から寮費を引かれて、2万円も残らないの。
そういう希望のない生活なので、周りの子は、手当たり次第に工場の中で結婚していったわ。まだ結婚できる年齢じゃなければ、とりあえず同棲に持ちこむのよ。高校生とつきあって子供ができちゃった子もいたけど、これは最低のパターンよ。みんな事務の人とか、作業監督クラスの人を狙って、なんとか結婚しようとしていたわ。男を結婚に踏み切らせるために、子供を作ろうとするの。コンドームに穴あけといたりして。毎日そんな話ばっかりしてたわよ。
でも私はここで結婚してしまったら大変だと思ったの。埼玉の奥で、子供を育てて歳をとるなんて、せっかく東京に行こうと決心した意味がないじゃない。
仕事は5時にぴったり終わるけど、そんな埼玉の奥じゃ東京に出るのに2時間もかかって、夜たとえばバイトしようとか勉強しようとか、無理なのよね。休みの日に何回か東京に行って、少し慣れたから、半年で工場は辞めてしまった。秋葉原のレストランでウエイトレスとして雇ってくれて、たまたま県人会の寮も空いていたので、いよいよ東京に出たわけ。