オンライン小説「格差社会」12

その次の美由紀の休みの日に、メイクのしかたを教えてもらった。アイラインをひいたり、つけまつげをつけるのが難しい。髪のセットも自分でやるのは大変だった。もう半年以上美容院に行っていないのだが、金がなくて安い床屋でメチャクチャに切られてしまうよりはと思ったのだ。今は金を多少作ったけれど、髪型を洒落たカットにすれば、両親が怪しむだろう。
チエミは両親とは縁を切らねばならないと考えていた。貧乏な親は、自分に金が出来たと知ればたかってくるだろう。母は教養があって、新聞に出ていることや歴史や地理などについて教えてくれた。特に父がリストラされる10歳までは、優しくリーズナブルな母親だった。だからシンパシーがないわけではない。しかし自分の人生をゼロからどころか、マイナスから切り開かなくてはならない境遇にしたのはこの情けない両親なのだ。
世の中にはもっとひどい親もいる。虐待する親、レイプする親、捨てる親、子供に売春させる親、子供に犯罪を犯させる親、子供に路上生活させる親。チエミの両親はただ生活力がないとはいえ小心者として真面目に働いていたし、無気力なだけで、まだマシではあったのだ。
両親が万が一追跡する気になっても、何も見つからないように注意した。ゴミは注意深く駅前のコンビニのゴミ箱に捨て、コンピューターの履歴も毎回消した。チエミは両親がいない時に、メイクをアパートで何回も練習した。これで東京に出る準備は整った。 
東京に出てすぐの生活については、チエミは計画を持っていた。クラスメイトで、人がよくて優しいとされている佐緒里という子がいた。丸ぽちゃな顔に、垂れ目という、いかにも人がよさそうな子だ。ところで、正確に言えば、佐緒里は可愛いとか綺麗とかアタマがいいとかいう特色がなかったので、「性格がいい」ことを自分の特色として選んだ女だった。そうでなくては、価値がなかったわけだ。本質的に佐緒里が人に優しく情の濃い女だったかというとそんなことはない。むしろ情は薄くて人のことはあっさり忘れてしまう女だった。
チエミは二学期の半ばからぱったり学校に行かなくなり、さすがにまずいと思って三学期に一度顔を出した。すると佐緒里が
「チエミちゃん、心配したのよう」と寄ってきた。
学芸大学に入学が決まっていて、卒業式が終わったらすぐ上京するのだという。九品仏にアパートも決まったと嬉しそうだ。
「四月になったら、あたしを二晩ぐらい泊めてくれない?」チエミは頼んでみた。「一度東京を見てみたいの」
学校を出た人間が大挙して移動している時期は少し避けようと思っていた。店の面接も混んでいるのではないかと思ったのだ。それまではアルバイトを続けるつもりだった。
「もちろん、いいわよ」人がいいことが看板の佐緒里としてはそう言わざるを得ない。それに貧しくて進学できず、それが悔しいのか就職もしないチエミを、佐緒里はかわいそうに思っていた。チエミは二年生の中頃までは成績は真ん中より上だったし、頑張れば自分より偏差値の高い大学に入れていたはずだ。
「でもあたしは学校が始まっているから一緒に観光できないわ。残念だけど。それでもいい?」佐緒里はうまく逃げ道を作った。自分より社会的に地位の低いチエミとずっと一緒にいるのは気詰まりだったのだ。
チエミは憐れまれているのがしゃくに障った。佐緒里の心理なんて、手に取るようにわかった。しかし東京に出るための手段だと割り切り、ニコニコして感謝した。これもキャバクラで働く練習だ。 
佐緒里を利用する必要があったのは、アパートを借りるにも、身分証明書と現住所を確認されることを予測したからだ。小田原の両親の住所を書いたら、万が一両親に連絡が行かないとも限らない。佐緒里のアパートを現住所にして、国民健康保険証を取ろうと考えた。そしてすぐに自分でアパートを借りて住民票を移してしまえばいい。それに佐緒里のアパートで店の面接に行く支度ができれば、ビジネスホテルに泊まる金や危険も侵さなくてすむ。 
四月半ば、クラスメイトが全員新たな環境へ散っていったあと、チエミは両親に、専門学校に行くのだという見え透いた嘘をついて、ボストンバッグに衣類を詰め、美由紀の部屋から持ち出した大きな紙袋を持って、東海道線に乗った。