オンライン小説「格差社会」4

九時になると、アパートのペラペラのドアに鍵をかけて(泥棒が盗みたいものもないし、こんなペラペラなドアを破るぐらいわけはないので、鍵なんか必要ないといつも思うのだが)、錆の浮いた安っぽい外階段を降りた。
一階に住んでいる水商売の女が、めずらしく早起きしてスッピンでゴミを捨てていた。表札によると、三枝美由紀というらしい。三十歳ぐらいなのか、疲れた、化粧焼けした肌をして、頭にターバンを巻き、マスカラも口紅もない顔は、見る影もない。
「おはようございます」それでも美由紀はほがらかに声をかけてくる。根が明るいのだろうか。恭子は無理して笑顔をつくった。うつ病になって以来、笑うには努力が要る。秀夫にはずっと「辛気くさい女だ」と言われ続けている。
「おはようございます」と返した。
 そのとき恭子はふと思い出した。この美由紀という女がいま頭に巻いているのと同じターバンを、チエミがしていたのだ。百円ショップに売っているどうでもいい安物とは少しちがう、ハワイアンの花模様のめずらしい意匠だったから、顔を洗っているチエミに恭子は聞いた。
「いいターバンじゃない。どうしたの?」
「友達にもらったの」チエミは答えた。
 もしかしたらこの水商売の女とチエミは友達だったのではないか。チエミが昼間何をしているかなんて、自分にも秀夫にも分からないし、美由紀は夕方ぐらいまでアパートにいるのだ。
 恭子は自転車で職場に向かった。人影もまばらな寂れた浜辺の町だ。シャッターのおりた商店と、老朽化した家しかない。秀夫と恭子が結婚した当初ここに住んだのは、いずれはもう少し小綺麗な住宅地に引っ越せるという希望を持ってのことだった。しかしもう二十年近く、ここから動けずにいる。それも慣れてしまえば気にはならない。
恭子は自転車を漕ぎながら、あの美由紀という女に話を聞いてみてもいいと思った。チエミの消息も分かるかも知れない。久しぶりに生身の人間に興味が湧いた。