オンライン小説「格差社会」2

縄張りを荒らされると、たまに数人で取り囲んで、大声で罵ったりしている。藤巻にはそういう輪に入って文句を言う気力もなかった。いくら正しいことを主張したところで、収入が増えるわけでもない。
しかしタクシー運転手の数はどんどん増えていく。今年になってまた二つの工場閉鎖があったし、倒産した商店もあるし、その中の何割かはタクシー運転手の道を選ぶ。そして薄給でもタクシー運転手を辞める者は少ない。楽だからだ。小田原あたりだと、タクシーはつかまえるものではなく、呼ぶものだ。だから黙って、会社が指定した場所に列を作っている。列の一番前のクルマから無線で呼ばれて迎車に行くこともあるし、とにかく待てば必ず客は乗せられる。乗せれば、収入はある。頭を使う必要はない。そして待ち時間には、運転手同士で馬鹿話をしたり、競輪の予想をしたりしている。
藤巻は高卒後、地元の工場に勤め、十五年働いて主任にもなった頃、中国に移転するとやらで突然工場が閉鎖になった。三百人近くが失業した。妻子がいて働かないわけにはいかなかったし、手っ取り早くタクシー運転手になった。そして楽だからもう十年もこの仕事を続けてしまった。妻がパートに出て合わせて月二〇万円そこそこで、一人娘と三人家族がどうにか食いつないできたという、社会の底辺の生活だ。浮かび上がろうにも何が出来るというのか、もう諦めた。真面目に働いてきたが、社会は俺に何のチャンスもくれなかった。本当に、何一つ。あのまま工場で働き続けることが、出来るべきだったのに。
 底辺だというけれど、この底辺も、うかうかしていると滑り落ちてしまう。ギャンブルは唯一の息抜きだが、のめりこんで借金でもしたらという恐怖がいつもある。
「しかしおれの娘は何をしているんだ?」アキレス腱を伸ばす動作をしながら突然、藤巻は思った。娘のチエミは去年、地元の名門校である県立小田原高校を卒業して、働きながら専門学校に行くと東京に出て行ったきり、音沙汰がない。妻はネットゲームに夢中で関心がないようだが、俺は自分の娘は気にしている。苦労してやっと育てたんだから、俺の面倒も見てもらわねば困るのだ。成績の良かった娘を大学にやれなかったのには内心忸怩たるものはあるが、自分のせいではない。社会が悪いのだ。
 藤巻は今度の休みに、東京まで見に行ってみることに決めた。新幹線は高いから、東海道線で行くのだ。一時間半かかるが、その間は競輪の予想でもしていればいい。
 四〇分でようやくその日最初の客を乗せることができた。一目で観光客とわかる六〇代ぐらいの老女で、ピンクの地にそれぞれ違う服を着たウサギが100匹ぐらい描かれたバッグを持っていた。
「ういろう屋まで行ってくださーい」間延びのした声で客は言った。
「ういろう? それは東口のほうが近いよ」言ってから、せっかくつかんだ客は逃すまいと藤巻はドアをさっさと閉めた。
「あらそう? じゃ降りようかしら……」
「これから東口まで行ったって疲れるでしょ」有無を言わさずクルマをスタートさせる。
ういろう屋までは七五〇円コースだ。時給三七五円。