オンライン小説「格差社会」1

 小田原駅西口前広場、午前八時。藤巻秀夫は小型タクシーの七台目の列に、自分の営業車をつけた。
 北条早雲像の横のタクシー溜まりに中型車が七台、小型車が七台。ロータリーの乗り場前に二台ずつ。九番目に順番がまわってくる。だいたい三〇分から一時間かかる。
 藤巻はエンジンをふかしたまま、ドアを開けて外に出て、デタラメなストレッチを始めた。待ち時間は長い。他の運転手も外に出て、煙草を吸ったり、電気カミソリでヒゲを剃ったり、運転手同士で喋ったりしている。話題はほとんどギャンブルだ。パチスロ、競輪、競馬。多くのタクシー運転手にとってギャンブルはほぼ唯一の娯楽であり、希望である。藤巻も車券や馬券を買ってもらったり一緒に予想したりして仲間に入ったことがあったが、他の運転手が悲壮といっていいほどに真剣なので、息苦しくなり、仲間を抜けた。時間があくと一人で小田原競輪場に通う。
 なぜギャンブルかといえば、もちろん収入が少ないからだ。少ないにもほどがある。他の運転手もみんなそう言っている。乗客が実際に支払った料金の半分だけが運転手の取り分で、今のようにタクシーの台数が多くなると、一時間に一人しかお客を乗せないこともあり、その客が近距離で六九〇円だったりすると、時給三四五円という計算なのだ。
 時給三四五円。手取りは月十五万円程度。朝八時から夜八時まで働いてだ。だから近距離の客にはありがとうと言う気にもなれない。藤巻は一〇〇〇円以下の客にはありがとうと言わない。
 客は小田原をぶらぶら観光して箱根や熱海にも足を延ばそうという優雅な身分の老人たち、山の手の高級住宅地に住むサラリーマン、授業に遅れるからタクシーを使う関東学院大学の金持ち学生などだ。かたやこちらは時給三四五円。客を見れば見るほど腹立たしい。
「おい、あの仁徳タクシーのやつ、本当に裏駅って言われてるのか?」前のクルマを降りてラジオ体操みたいなことをしていた初老の運転手が話しかけてきた。裏駅とは地元の人間の小田原駅西口の呼び方だ。商店街と海側はオモテ、官公庁や住宅地の側は裏駅という。
「そうだな、見ない顔だな」
「あいつはこの前オモテでも見かけたんだ。オモテの奴なんじゃないか?」運転手は会社から客待ちする場所を指定されている。それ以外の場所で客待ちするのは、他のタクシーの営業妨害になるので、禁止されている。
「ああ、そうかもしれないな」藤巻は適当に話を合わせながら眼をそらせた。トラブルはごめんだ。
 しかし初老の運転手も一人で文句を言いに行く元気はないらしく、藤巻にもその気がないと見てとると、黙ってクルマに乗り込んだ。