歳をとるとはモノを失うこと

55歳になって痛感するのは、歳を取るといろいろなモノを失くしていくんだな、ということだ。
以前は多くて太くて邪魔だった髪の毛も細く少なくなり。
歯茎が痩せて歯が怪しくなり。
唇の赤みが薄くなり。特に上唇。
体力は少しずつ衰え。
骨は脆くなり。
……と、身体だけでもいろいろある。
さらに。恥じらいとか慎みがなくなっているなと感じる。
以前なら、恥ずかしくて出来なかったことも、今なら出来るとか。例えば動作の遅い店員に「早くしてくれる」と言う、だとか。
猥談が平気で出来るようになった、とか。
あと、我慢が効かなくなった。バカみたいな話を延々されると我慢できず「忙しいんで、結論を言ってもらえます?」とか言ってしまう。別に忙しくないが。
友達も、もう付き合うのが面倒、ぐらいの人とは敢えて会おうと思わないから、少なくなる。
それでも我慢して年賀状とか出し続けるべきなのかもしれないけど、意味ないと思ってしまい、やめた。
こんな感じで、「余計なモノがなくなって身軽」と思うのではあるけど
一方で、少し、というか、けっこう寂しいのである。
だからといって、今更、消え去るべきモノを後生大事に守ろうとも思わないのだが。
だって、それはもう、時の流れでなくなって行くのが当然なのだから、無理して押しとどめたって、結局なくなるのだ。
髪の毛よさようなら。丈夫な歯よさようなら。疎遠な、年賀状だけの友達よさようなら。そんな感じだ。
私は思うのだが、世の中が、若さ礼賛、老人は醜くてかわいそうみたいな風潮なので、老人はみじめな気持ちになるかもしれないけど、
若いは若いで、面倒くさいことばっかりだし、だいたい月1回生理があるとか、男と恋愛しなくちゃいけないとか(そのように世間が要請するのだ)、金がないとか、仕事が安定しないとか、私はもう二度とごめんである。
今が一番良い。面倒なことは何もしない。気に入らないことは気に入らないと言う。大変なことをやらなきゃならない時は、大変だ大変だとわめきながらやる。
歳をとると、いろいろ良いこともあるんだよ。

フィギュアスケートに思う

先日、フィギュアスケート宇野昌磨のパフォーマンスを観て、思わず涙してしまったのだが、別にジャンプが凄いからではない。
フィギュアスケートのアナウンサーはジャンプ、ジャンプと言い過ぎで、芸術としての面もきちんと語るべきだ。表現力も磨いてきました、程度にしか触れないけど、あまりに不勉強であり、演技者に失礼な話。
宇野昌磨の演技は、ジャンプも凄かったけど、芸術として素晴らしかった。この感動は何なのか、と考えるに、「手の届かないものへの切ない憧れと哀しみ」を表現していたからなのである。
言葉でいうと実に散文的につまんなくなってしまうのだが、説明すると、この世の中は汚くて不公平で苦しいこともいっぱいで、でもどこかにもっと美しくて崇高で幸福な世界があるはずで、それを人間は求めるのだけど、絶対に手が届かないから哀しい、みたいなことである。
これは私の愛するジミー・ペイジの「天国への階段」のイントロを聴く時、いつも思うことで、こういう表現ができたジミーはすごい、となるのだが、宇野昌磨も凄かった。パチパチパチ。
私だけが勝手に考えているのかもしれないのだが、すべからく芸術が感動を与える理由の一つは、この「完璧なものへの憧れと手の届かない哀しみ」なのではないかと、私は思っているのだ。
本当に優れた芸術を観たり聴いたりする時、私たちの胸は切なさで締め付けられ、この世界から抜け出して永遠の世界に旅立ちたいと願い、それが叶わない望みであることに哀しみを感じて、深く動かされるのである。

それで、フィギュアスケートの話に戻るのだが、宇野昌磨の演技は歴代5位という凄い点数を出したにもかかわらず、復帰した浅田真央だけが話題になった。
浅田真央の演技はもちろん悪くなくて、でもどちらかといえば私が感動したのは、彼女がいろんな経験をして一人の大人の女性として立派に生きていこうとしている、ということだった。
幼いころからもてはやされ、注目され、プレッシャーをかけられ続ける生活の中で、ごくごく当たり前のことをきちんと感じられる女性になったのは、えらい。ということである。
そんな見方は邪道なのかもしれないけれども、フィギュアスケートの技術が理解できるわけではないので、そういう見方をするのだ。別にいいと思うんだけど。

人の行かない業界に就職しよう

いま、企業は採用難です。人事担当の私が日々、悩んでいて、また、いろんな人から聞くので、本当です。

特に売れているのが、30代前半、そこそこきちんとしたキャリアを積んで来た人。だいたい3社ぐらいオファーをもらって、どれにしようかな、と選んでいます。

業界的に言うと、建設土木電気といった技術職、技術営業職は、特に人手不足。東京オリンピックのための建設ラッシュというのもあるし、そもそもこの分野に人が少ないです。

さて、そもそもこの、建築土木電気といった分野に人が少ない、ということを考えてみると
学生さんが、この分野に進学しようとしない、また、就職しようとしない、ということだと思います。

優秀な学生はどこで何をやっているのか? 私はすごくそれを知りたいです。
でも、たぶん、ITとか、コンサルティングとか、総合商社、大手銀行、航空業界、自動車業界、なんかに行くんでしょうね。
電機業界は、比較的人気が落ちてると思いますし、建設土木電気は、マイナーなほうになるんでしょう。

しかし、はっきり言うと
競争に勝ち抜いていける自信のある、本当に優秀な人は、ITとかコンサルティングとか、人気のある業界に行って勝負すればいいと思いますが、
優秀な人がこぞって行くような業界に行って、本当にいいことがあるかどうかは、分かりません。

人気のある会社とか業界は、当然、社員同士も競争しているわけですから、日々、選別されていると思ったほうがいいです。
勝ち抜ける人はいいですが、勝ち抜けないと、あまり面白くはないかもしれないです。

自分の能力の限界とか、どんなふうに人生を行きたいかということを、もう大学生であれば、よく考えて、
それが実現できそうな業界や会社で、能力を身に着けるのが良いのです。

例えば誰もが目指すIT業界であれば、技術も日進月歩なので、ついて行くのも大変かもしれません。
そんな中で、競争して、やっと生き残るのか、

あまり、人気がないけど絶対に必要な業界に行って、やる人があまり多くないことをやって、
ちゃんと食べていけるようになるのか、

考えどころだと思いますよ。

建築土木電気、といった業界は、ガテン系で、3Kで、といったイメージで、敬遠しがちなのかもしれませんが、
誰もが現場で働いているわけではありません。
少し頑張れば、一生、食べるに困らない技術を、身に着けられるのではないでしょうか。
技術革新も、それほどドラスチックではないですから、10年経ったら何も役に立たなくなっていた、というIT業界みたいなこともありません。

みんながこの業界に行くから、人気だからと
ついていっても、
どこへ行ったって、一寸先は闇なんですよね。
頼れるのは自分の腕だけ、と思えば
企業の選択も変わって来ませんか?

和民さん、どうしたの?

何かと評判の悪い和民だが、私は決して嫌いではなかった。つい最近までは。
フードはけっこう頑張っていると思うし、安いし、席はゆったりしている、だいたい混んでいて入れないということはない。
だからよく家族で利用していたのである。
しかし今はさすがに行かなくなった。なぜなら。。。
サービスが最低なのである。
もともと、サービスはそれほど良くなかった。よく文句を言っていた。
でも今は本当にひどい。
例えば、
店員が、知り合いが客で来たらしく、ヒマさえあれば客席に来て雑談している。
オーダーを忘れる。2回催促しても来ないので、文句を言ったら、逆切れされる。
オーダーを間違える。
料理を運んできた時、あいている食器を下げないから、テーブルの上がいっぱいになる。
料理を運んできた時、自分でテーブルの上に置かずに、客に手渡す。
言葉づかい、ひどい。

等々で、要するにそのへんの高校生を連れてきて店に出しているんだろうと思われる。
別に高校生を連れてくるのはいいから、
1週間ぐらい、徹底的に教育してから、店に出してほしいものだ。
行くたびに不愉快だから、行かないのだ。なんとかしてもらわないと、客足は落ちるばかりだろう。

五十肩との付き合い方

ここ2年、左肩から始まって1年続き、治ると同時に右肩が痛くなりと、五十肩に悩まされてきた。

私の場合片方が1年で、マジで痛いのがそのうち半年ぐらい。ただこれは人によって違う。3か月で治る人もいれば、2年かかる人もいる。

ことほど左様に、五十肩はいろんな人がいろんなことを言うが、人によって痛さも、効く治療も違うので、アテにしないほうがいい。

私がこれは本当だなと思うことは
「我慢して付き合うしかない」
である。治療法は、はっきり言って、ない。鍼もマッサージも一時的なものでしかない。

だから、大枚投じて、いろんな治療を試さないほうがいいのである。

しかし五十肩のピーク時の痛さは、我慢できない。なんとも感じが悪いし、動きによって激痛が走るし、夜は眠れない。

ピーク時にいいのは、次の3つ。
1)湿布剤
2)貼るカイロ
3)痛みどめ

整形外科に行けば、1)と3)は安価に出してくれるので、これで過ぎ去るのを待つ。

それと、もう一つ本当だと思うのは、五十肩は温めて動かすのが良い。だから貼るカイロは手放せない。

私の場合はホットヨガをやると調子が良くなるが、人によるんじゃないかと思うので、必ずしもお勧めはしない。

そもそも、こんなものの治療法がないということが信じられなかったので、最初の左肩の時は、悪戦苦闘した。鍼、マッサージ、サポーター、漢方薬、塗り薬、等々。ほとんどムダだったと言うほかはない。10万円ぐらいは使っている。

それから、ほっとくと癒着して動かなくなると言われるが、あんまり必死に動かさなくても、そこそこやっていれば、時間とともに動くようになるみたいだ。

最後に、五十肩は絶対ストレスと関係がある。あんまり痛くてストレスもひどいと、鬱になってしまうから、気を付けよう。五十肩になったら、身体が休みたがっていると思って、のんびりするのが、良いだろう。

天国への階段の私的解釈

天国への階段の歌詞は、分かるようで分からない。何か肯定的にものごとを見よう的なことが歌われていることは分かるが、ピタッとはまらない感じである。これは母国語ではない英語だからだろうな、と私は思っていた。

しかしCelebration DayのDVDで天国への階段を聴いて、初めて納得してしまった。そうだ、これは「天国への階段は、買えるものなのだ。」という歌である。

つまり、神様に選ばれた人だけが登れる階段ではない。買える=あなた次第で、手に入れることができるものだ。という歌である。

そして、どうやったら買えるかというと、買えると信じればいいだけである。それが、光るものはすべて金と思う、ということだ。

そうは言っても、とにかく、光るものはすべて金と思うのは難しい。だいたいいろんなことがありすぎて、もうイヤみたいな気になってしまうのだ。だが、そういうのはあなた一人ではないので、一生懸命に歩いていけば、大丈夫なんである。

で、その階段は、風のなかにある。どこかに確固とした立派な階段が、常に存在しているわけではないのだ。あなたは、風を感じなくてはならない。風を感じた時にのみ、天国への階段は現れる。だからいつも、風を感じられるように、頑張っていないといけない。一回見つけたらそれで安心、みたいなものではない。

ーーーーとまあ、こんなような歌詞を、六〇歳をすぎた彼らが諄々と説きつけるように歌うと、そうだなあ、きっと天国への階段は買えるものだな、と思うのだ。

ところでレッド・ツェッペリンの歌のすべてに言えることだが、天国への階段には特に「はるか遠くにある、完璧に美しいものへの、切ない憧れ」が強烈に流れている。

聴く人間も「ああ、いつかはあの完璧な美しい世界へ旅立ちたいものだ」と、切なくなってしまう。そんな世界は、少なくとも私たちの生きている世界にはない。イギリスのあんな美しい田舎に住んでいる奴らでさえ、満足しないのだから、ないのだ。

そこで私は、いつかはジミー・ペイジが死ぬことを、こんな風に考えて、自分を慰めることにした。ジミーは、ずっとずっと憧れ続けた美しい世界に、天国への階段を登って、旅立つのだ―――と。

まあ、それはあと一〇年ぐらいは、先で良い。というか、ずっと来なくていいのだが。

ジミー・ペイジを見て、考えること(1)

レッド・ツェッペリンに関する書籍や記事を漁ると、必ずセックス、ドラッグ、破壊行為、酒、煙草のことが書いてある。確かにジミー・ペイジはコカイン所持で2回逮捕されているし、相当やったみたいだというのは分かる。女関係も派手だったみたいだし、酒はジャック・ダニエルをラッパ飲みしている有名な写真があるし、来日の時の傍若無人ぶりは伝説である。

しかしそれは事実として、一番大切なのは、音楽に対しては純粋であり真剣だったということだ。ジミーの言葉でいえば「全身全霊を傾けていた」のである。そうでなければ、ただのゴロツキである。

私は六万円以上したJimmy Pageという本人編集の豪華写真集を持っている。この中の、とくに若い頃の写真は、だいたい「口をぐっと引き結んでいる」写真が選ばれている。それらをずっと見ていくと、本人がこれらの写真を意図的に選んだことを考えれば、若い頃ジミー・ペイジは、何かを成し遂げようとして必死で歯を食いしばって頑張っていたのだ、というメッセージが伝わってくる。

酒を飲み麻薬をやり乱交パーティーをやったとしても、そこにジミーの本質はなかったのだ。彼は音楽をものすごく大切にしていた。いつも音楽への情熱がすべてのことの上にあった。だから最終的に、麻薬で死なずに済んだのではないかと私は思う。

それにしても麻薬は相当きつかったみたいで、抜け出すのはたいへんだったようだ。抜けたと思ったら首の太いオヤジになってしまって、それはそれで困ったことだった。しかしとりあえず、現在のペイジはとてもいい感じの白髪の紳士で、とうとうクスリも酒も煙草も断って健康そうである。

昨年のRoy Harperの誕生日記念コンサートで、アコースティック・ギターをRoyと一緒に弾いているYouTubeがある。美しい白髪を上品に後ろで束ねた長身のジミーが、静かにRoyに挨拶して座り、一緒にギターを弾き始める。なんとも美しい旋律が二人のギターから流れ出す。そこにRoy Harperの歌声がかぶさる。すばらしくステキである。

この美しい歳のとりかたを見ると、とうていジミーがそんなにクスリ漬けで自分を見失うほどだったとは思えないのである。いや、自分を見失った時もあっただろうけど、音楽にそれが出てしまっているとは思わない。

なんだかんだ言って、若い頃暴れたとしても、夢中になって追求してきたものがあったなら、ジミーのように歳をとることはできるのではないかと思うのだ。というかジミーはとても頑張ったのだ。唇をかみしめながら。