天国への階段の私的解釈

天国への階段の歌詞は、分かるようで分からない。何か肯定的にものごとを見よう的なことが歌われていることは分かるが、ピタッとはまらない感じである。これは母国語ではない英語だからだろうな、と私は思っていた。

しかしCelebration DayのDVDで天国への階段を聴いて、初めて納得してしまった。そうだ、これは「天国への階段は、買えるものなのだ。」という歌である。

つまり、神様に選ばれた人だけが登れる階段ではない。買える=あなた次第で、手に入れることができるものだ。という歌である。

そして、どうやったら買えるかというと、買えると信じればいいだけである。それが、光るものはすべて金と思う、ということだ。

そうは言っても、とにかく、光るものはすべて金と思うのは難しい。だいたいいろんなことがありすぎて、もうイヤみたいな気になってしまうのだ。だが、そういうのはあなた一人ではないので、一生懸命に歩いていけば、大丈夫なんである。

で、その階段は、風のなかにある。どこかに確固とした立派な階段が、常に存在しているわけではないのだ。あなたは、風を感じなくてはならない。風を感じた時にのみ、天国への階段は現れる。だからいつも、風を感じられるように、頑張っていないといけない。一回見つけたらそれで安心、みたいなものではない。

ーーーーとまあ、こんなような歌詞を、六〇歳をすぎた彼らが諄々と説きつけるように歌うと、そうだなあ、きっと天国への階段は買えるものだな、と思うのだ。

ところでレッド・ツェッペリンの歌のすべてに言えることだが、天国への階段には特に「はるか遠くにある、完璧に美しいものへの、切ない憧れ」が強烈に流れている。

聴く人間も「ああ、いつかはあの完璧な美しい世界へ旅立ちたいものだ」と、切なくなってしまう。そんな世界は、少なくとも私たちの生きている世界にはない。イギリスのあんな美しい田舎に住んでいる奴らでさえ、満足しないのだから、ないのだ。

そこで私は、いつかはジミー・ペイジが死ぬことを、こんな風に考えて、自分を慰めることにした。ジミーは、ずっとずっと憧れ続けた美しい世界に、天国への階段を登って、旅立つのだ―――と。

まあ、それはあと一〇年ぐらいは、先で良い。というか、ずっと来なくていいのだが。